健晃堂

謎は謎のままで受け入れよう

謎を解き明かすのは、とても楽しいことです。

代表的な謎といえば、神の存在。

無神論者は、神が本当に居るなら存在を証明して見せろ、などということがあります。

神の存在を証明し証拠を提示することなど、人間には出来ないでしょう。

しかし、証明できないからといって、神が存在しないということにはなりません。

存在しないということもまた、証明出来なければ、証拠を提示することも不可能です。

また、もし神の存在が科学的に証明されたとしたら、どうなるのでしょう。

神とは人間を超越した大いなる存在であるはず。

人間の知性で証明出来るものであるなら、それはもはや、神とは言えないでしょう。

このように、謎を理屈で考え始めると、永遠に答えに辿り着きません。

答えが得られないだけなら、何の問題も無いでしょう。

ところが現実社会では、わからないことを理論で証明しようとして、多くの人々の価値観が強制的に排除されるようなことが多々起こっています。

理論的なものと理論的でないものの対立は、多くの争いや憎しみ、悲劇を生み出しています。

謎を解き明かすのは楽しいことですが、それも行き過ぎれば、その先には必ず泥沼の不幸が待っています。

神のような大きな存在の存在だけではありません。

目の前にいる人の気持ち、パートナとなる人の気持ちなど。

距離が近くなればなるほど、相手の気持ちがわからなくなる、といった経験は誰しもあるでしょう。

何を考えているのか、さっぱりわからない。

言葉と行動が完全に矛盾しているにも関わらず、本人は自分は正しいと言い張り態度を変えようとしない。

そんな時に、相手に理論的な説明を求めて、良い結果になるでしょうか?

絶対になりません。

理論で納得しようとすればするほど、関係はこじれ、ついには修復不可能な状態にまで壊れてしまうでしょう。

わからないことは、わからないままで良い。

謎は謎のまま受け入れる。

神の存在とは、謎であると同時に、信じる人にとっては事実である。

日々の生活、身近な人との人間関係などは、わからないことを無理に知ろうとするところから崩壊が始まります。

謎は謎のまま、そういうものだと大きな気持ちで受け入れる。

毎日を楽しく生きていくためには、時にはこの思考がとても重要になります。

参考にしていただけると幸いです。

16.08.04

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