8月14日、岡山県久米郡美咲町の両山寺で行われた護法祭での務めを、おかげさまで無事に終えることが出来ました。
昨日より平常通り過ごしております。
護法祭は、その地域を鎮守する烏の神様(護法善神)に一年に一回、鎮めている土地を見てもらうというお祭り。
起源は1275年、今年で742回目、長い歴史の中で一度だけ中止したことがあったそうです。
神様を降ろし人に憑依させ、神が乗り移った人がお寺の境内を駆け回り、お遊びと呼ばれる「御法楽」を行う奇祭です。
五穀豊穣、家内安全、万民快楽を祈るのがお祭りの本当の趣旨。
また、護法祭が奇祭とされているのは、護法善神のお遊びの妨害をして捕まると3年以内に死ぬという恐ろしい言い伝えがあるため。
この点については、また後ほど。
神様が憑依する護法実の役割を、私が引き継いで今年で3年目になりました。
少し、様子をお伝えさせていただこうと思います。
まず、この務めを果たすためには、8月7日から14日の当日まで、お寺の一室に一人で籠る必要があります。
この間、ネット環境への接続も出来なければ電話も出来ず、本も読めません。
人と会話をすることも禁じられていて、外部からの情報は完全に遮断されます。
そして毎日5回、朝6時、昼12時、夕方6時、夜11時、深夜2時に水垢離をして、約40分ほどかけて山道を決まった順路で巡拝します。
もちろん一人で、もし外で人に会っても話は出来ません。
この修業を通じて毎年感じるのは、日頃から便利な生活に慣れ切ってしまっているためか、本来の能力を知らず知らずのうちに大きく退化させてしまっているということ。
一切の情報が遮断された状態で、毎日山道を歩いていると、一日毎に季節の変化が感じられます。
鳥や虫の鳴き声、山の木々の様子など、風邪の感触など自然の変化がはっきりとわかるようになります。
ただ、それは初めての感覚ではありません。
子供の頃には普通に感じられていたものを、忘れ去ってしまっているだけ。
話し相手も居ない、スマホも触れない、テレビやラジオも無い状態で食事をすると、味覚が冴えとても美味しく感じられます。
このように五感が冴えて来ると、不思議なほど将来への不安などが消え去ります。
そうして8月14日の当日、お寺の本堂で神降ろしの儀式を迎えると、今までとは一転。
法螺貝や太鼓の音が鳴り響き、大勢の人の掛け声が聞こえる中、座った状態で榊葉と呼ばれる笹の束を大きく回します。
これがものすごくつらい。
あっという間に体力が尽き果てて放心状態に。
それでも支えの人に笹を持たされて回し続けていると、完全に脱力した頃に、底力が出てくるのでしょうか。
回すスピードが急に速くなり、激しく揺らし始める。
もう体力も気力も残っていないはずなのに、榊葉を動かしているのは確かに自分。
そうしているうちに、自分の意識が身体から離れて行くような感覚になり、“神が憑いた”状態に。
神が憑くと立ち上がって、本堂から飛び出し境内を走り回りお遊びに移ります。
この時も、走っているのは自分であって自分ではないような、とても不思議な感覚。
しかし、意識はものすごくはっきりと冴えわたっています。
お遊びの最中は、常に裸足。
足の裏に伝わる地面の感覚がとても気持ち良く、五感も冴え、「ああこれが神が憑くということなのか」と感じられました。
30~40分ほどお遊びを行い、後は神様を送る儀式をしてお祭りは終了。
終わった後は、とても心地良い疲労感に包まれていました。
この経験を通して思うことは、神降ろしの儀式とは人間が持っている本来の力を引き出し、土地の様子を隅々まで感じ取ることなのではないでしょうか。
数日間のお籠りによって、外部からの情報を遮断し、自分自身と向き合い無駄な思考を無くす。
毎日5回、それぞれ違う時間帯の山道の巡拝を通して、五感を冴えさせる。
冴えた五感に刺激を与えることによって、人の脳は活性化します。
今度は、急に激しく体力を消耗させ、無駄な緊張を無くし、日頃は使われていない能力を目覚めさせる。
こうして、護法実を通じ、護法善神が土地の様子を知ることが出来る。
これが、護法祭を行う目的なのではと感じています。
まだまだ今の私にはわからないことだらけですが、700年以上続く護法祭には、人間の本質にかかわる深い部分が隠されていると思います。
人工知能などの進歩のおかげで、私たちの暮らしはとても便利になりました。
ですが、誰もが生きやすくなったわけではないようです。
700年以上の歴史が伝えている人間の本質とは何か?
それらが解るようになるまで、これからも日々精進したいと思います。
ところで、気になる「捕まったら3年以内に死ぬ」という言い伝えについて。
恐ろしい話ですが、捕まるのはお遊びの妨害をするなど、悪質な行為をした場合のみ。
あくまで、五穀豊穣、家内安全、万民快楽を祈るお祭りであって、神様と鬼ごっこをするのが護法祭の目的ではありません。
過去に護法実に捕まって本当に亡くなられた例はあるようですが、実際のところ、捕まったことが原因なのかどうかはわからないそうです。
このような例が長い歴史の中で積み重なって、祟りの言い伝えが生まれたようです。
両山寺の住職さんからは、「死のうが死ぬまいが、やってはいけないことはやってはいけない、そういった戒めの言葉ではないか」とお聞きしました。
また、岩田書院「ケガレからカミへ」(新谷尚紀著)によると、護法祭は人々のケガレを払うお祭りで、護法善神はケガレを払う神様。
ケガレとは、人の死につながるもの。
物質的なものだけでは無く、良くない思考・言葉・行動など、人の死を早めるもの全て。
護法善神のお遊びの妨害をすると、神様が集めたケガレがその人に乗り移ってしまうため。
といったことが書かれています。
つまり、普通に参加しているだけでは、捕まる心配は無いということなので安心して良いようです。
逆に、お祭りの妨害をした場合は、その時点でアウトなのだとか。
神様に目を付けられ、護法実に追いかけられて、捕まることなく逃げ切ったとしても。
捕まる、捕まらないに関係無く、災いに遭う可能性は高いので、しっかりお祓いはしておいた方が良いようです。
私自身が護法実を経験して3年間。
これまで一度も悪質な妨害行為などをされることも無く、無事に務めを果たせたことに感謝しております。
これからも、この伝統行事を受け継いでいくために尽くしたいと思います。