神様に憑依されると聞くと、あなたはどのように感じるでしょう?
なんだか怪しい。
そんな非科学的な話は信じない。
おそらく、そのように感じるのでは?
憑依という現象が、本当に存在することを素直に受け入れられる人は少ないと思います。
私自身も、全く信じることは無いタイプの人間でした。
今回、私が体験したお祭りでの儀式の目的は、一週間山寺の一室に籠り、外部との連絡を一切絶ち、誰とも口を聞かない生活を送ったあと、祈り憑けを行い自分の体に神様に乗り移ってもらうこと。
神様の憑依した体で、お寺の境内の中を走り回るというものでした。
本当にそんなことが起こるでしょうか?
結論から言えば、確かに憑依は起こりました。
儀式では、笹を束ねた長い棒を時計回りに回します。
これが、見ている分にはわからなかったのですが、思った以上に体力を使います。
すぐに体力の限界が来て、自分の力では回せなくなる。
それでも儀式は続くため、力の限りを振り絞って回し続けていると、ある瞬間にふっと意識が変わります。
自分は何もしていないのに、体が勝手に笹を回している。
その回すスピードは、自力では絶対に出せないような速さ。
神が憑いた!!
と感じた瞬間に、体が自然と走り始めます。
しかも、体が前に向かって走って行くのに対し、意識だけは後ろに置いて行かれるような感覚。
自分が走っている後ろ姿を、少し離れているところから見ている感じです。
体をコントロールしているのは、明らかに自分ではありません。
意識とは関係なく、勝手に体が動いています。
しかも、この間は、何とも表現が出来ないほどの心地良さを感じていました。
全く信じられないかも知れませんが、私は確かに、自分自身でこの憑依を体験することが出来ました。
しかし、このような現象は何も、昔から行われている伝統行事だけで聞くものではありません。
マラソン選手が後半に急にスピードを上げた時に、
「走っているのは自分では無かった」
「自分が走っている姿を、少し上から眺めていた」
などと表現することがあります。
他にも、スポーツ選手からは似たような話を聞くことがあります。
人間は、体力的にも精神的にも極限状態にまで追い込まれた時に、持っている以上の力を発揮することが出来る。
このような経験なら、誰しも一度や二度はあると思われます。
私が、今回経験したような現象も、現代の科学をもってしてみれば説明できる話なのかも知れません。
神がかり的な行動は、理論的には誰にでも起こせるものなのでは?
そう強く感じました。
今回の儀式で私が行ったことは、一切の情報を絶ち、精神的な緊張から自分自身を解き放つこと。
その状態で、体力を極限まで使い切る儀式を行い、身体的な緊張からも解放されること。
全ての緊張から解き放たれ、完全に“無”になることで、思わぬ現象が起きるものです。
神様に憑依され、自分では無い何者かが自分の体を動かしている最中に、私が感じたことがあります。
それは、社会的な成功を手に入れたかったら、神憑り的な力が必要になる。
当たり前のことを、当たり前のようにこなしながら、日々生きていたのでは、当たり前の結果しか手に入らない。
神憑り的な力を手に入れるには、まずは外部からの情報に一切惑わされることなく、一つのことに完全に集中すること。
その上で、自分を極限状態にまで追い込むために、当たり前ではないほどの行動量が大切。
精神的にも身体的にも力を使い果たした時に、ふっと完全に力が抜ける瞬間が来る。
この先に神憑り的な力が発揮される。
思えば、私がこれまで接してきた社会的な大成功者たちは、みんな同じことを語っていました。
人は、いつも全力で行動し続けることは出来ません。
休息とのバランスを取ることが必要です。
しかし、いつもバランスの取れた行動ばかりしていたのでは、何事も起こりません。
一点集中できるものが見つかったら、自分の持てる力の最後の一滴まで振り絞って行動を起こす。
全ての力を出し尽くした後に、神憑り的な力が発揮され奇跡が起きる。
私は神様に、理屈では無く実際の体験として、これらの教えを叩き込まれたような気がしました。
何かをやると決めた時には、常に120%の力を出し続ける自分でありたい。
忘れないようにしたいと思います。
お祭りの最中に感じていた不思議なことが他にもあります。
また次回お話します。