私は昔から本を読むのが好きで、様々なジャンルの本を読みます。
鍼灸師・柔道整復師という職業柄、健康に関する分野や生命の成り立ちなどの本、病気に関する専門書などがどうしても大きな割合を占めるのですが、その中には日々の迷いを取り除いてくれるようなシェアしたい話もたくさんあります。
今日はその中の一つ、片山洋次郎先生の著書の中に書かれていた話をシェアさせていただきます。
【自分というやっかいな乗り物】
身体の勢いにうまく乗れている時は、自分が何をしたいのか、何が出来るのかがハッキリしていて、静かな気がする。
勢いを抑え続けていると、自分が本当は何をしたいのかもわからくなり、慢性的に重い気分になってしまう。
もちろん誰だってそう上手く乗れるわけはないのであって、それらしい修業をしたからといってうまくできるわけでもない。
自分ほどやっかいな乗り物は無い。
うれし過ぎるときも悲し過ぎるときも、ジャストなノリからずれている。
一方に振れれば反対にも必ず振れるので、良いほうだけ欲しいと言っても無理だが、両方とも受け入れられれば、それは「人生の味わい」というものになるだろう。
いずれにしろ、そのたびに「いま」に飛び込んで切り抜けてゆくうちに、自分に乗る自分だけのコツや「快感」もつかめるようになるのだ。
こういうことばかり言っていると、大変なことだと思われるかもしれない。
いずれにしろ、生きるということは大変なことなのだから仕方が無いのだ。
ただ、人に対する見方や付き合い方で“救い”や“元気”を得ることは出来る。
気的共鳴性の高い人を大事にすればよいのである。
問題はその見分け方だが、まず世の中で役に立っている人や偉い人ではない。
そういう人は確かに「頼り」にはなるが、現実に役に立っている分だけ、気的役割は低い。
また気的修業を積んで偉く見える人も同様である。
その人が気的世界の案内人ではあり得るとしても、「偉い人」にはパワーを与えてもらおうと思ってもそうはいかない。
気的に“救い”を与えるような人は、現実には役に立つようには見えない。
頼りなかったり、無欲で存在感が薄く、いても目立たないが、いないとかえって存在を感じるような人である。
そういう人が知らないうちに人を元気にしたり、インスピレーションを与えたりしているのである。
そういう人を大事にしていると、知らないうちに生きる元気が出てくる。
(整体。共鳴から始まる気ウォッチング より抜粋)